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「よすが」

25歳という年齢にしては、時代遅れの服を着た仲田絵美がカメラの前に立っている。すると今度は、写真家よりもだいぶ年上の男性がカメラを構えた写真が現れた。どういうことだろう?この謎は、彼女の人生を知ることで明らかになってゆく。写真の中で彼女が着ている服は、若くして亡くなった母親の遺品。撮影しているのは彼女の父親。写真に出会うまでに彼女がたどった道は、いくぶん奇妙なものだった。
ファッションを学び、結婚式のプロデュース会社に入社したものの、撮影の人手が足りなかったためにカメラを手にする。そこで数々の結婚式に接することで、「幸せとは何か」を考えることになったという。そのときレンズを向けた先が、幼くして別れた母との「記憶」だった。「よすが」で、仲田は撮影者であり役者(被写体)であり、監督でもある。はたして観客はいったい誰なのだろう?ときおり父親が撮影者になるという仕掛けも、作品にさらなる広がりを与えている。父親の存在は、彼女のまなざしと私たちとを遮断し、視線を分散させる。それと同時に、彼女のまなざしの力はより強くなり、私たちの謎はさらに深まるのだ。

Dan Abbe
『IMA 』Autumn 2013 Vol.5 「Step Out! Vol.1」若き写真家のためのポートフォリオ集 より

 

 

<家族>という経験

仲田絵美展「よすが」は、母の遺品を身に纏った作家のポートレートを中心とした写真作品で構成されている。一連の写真には、作家自身が撮影したものと作家の父が作家の姿を撮影したものが混在しており、鑑賞者にはどちらによるものか判断がつかない。
自宅やその周辺で撮影されたこれらの写真の中に、項(うなじ)があらわになった無防備な作家の姿がある。表情を読み取ることのできないその横顔からは、女性性が強く放たれる。父に見せる姿というよりも、恋人に見せる姿のように感じられるこの振る舞いを通じ、作家は女性としての母、男性としての父を体感しているようである。
展示の後半に、母のワンピースを着た作家と、カメラから視線を逸らすために携帯を操作しているように見える父が並んで座っている写真があった。ふたりのまなざしの違いは、母と妻というそれぞれにとって大きな存在を喪失し、家族の関係が変化してしまったことを浮き彫りにしているように見える。父の視線がカメラから逸らされているのは、母の遺品を身に纏った娘の姿の向こう側に、亡き妻の存在を重ね合わせているからではないだろうか。
家族とは、小規模な共同体において、個々の人びとが関係を築いていくことにより形成されていくものである。母と妻を失った二人による協働の撮影行為は、二人を結びつける大きな存在の欠如により関係が変化した後に、再び家族という関係のバランスを修復するための切実な行為に思えてならない。展示の最後に飾られた写真の中の二人は、非常に近い距離に立ち、カメラをまっすぐに見据えている。そのまなざしからは、新たな関係を共に築こうとする静かな意志が感じられた。

川村麻純[写真家]
『美術手帖』9月号 REVIEWS より

 

 

「よすが」

仲田絵美は身のまわりのことを撮るが、“日常”を撮っているわけではない。そのことは、新作「よすが」によって鮮明になったように思う。

母の遺品をまとい父にシャッターを押してもらう彼女の、写真の中に身を投じた、凝固した眼差し。自らを刻みながら、世界に対する触手がふるえるセルフポートレート。「よすが」は、写真の存在そのものであり、仲田がそこから生と死に向けてたどたどしくも生み出そうとしている関係のことだ。写真家・仲田絵美のゆくえを、私は身をもって見つづけたい。

姫野希美(赤々舎代表取締役・ディレクター)
第7回 写真「1_WALL」グランプリ受賞者個展 仲田絵美展「よすが」より

 

 

 

仲田絵美の「美しい速度で」に寄せて

そのポートフォリオには、繰るというひとつの方向を示されながらも、うねるものを感じた。展示は渦のようだった。大小ある写真が互いに接しながら、混沌として鮮やかに渦を成していた。ところどころに現われるセルフポートレートらしき写真が、無防備に何かを受け止め、何かに対峙するようで、その眼差しや姿態を覗き込んでしまう。そして明らかに時代の違う写真の複写が、その渦の中で他と並び息づいていた。

他界した母の「写真」を撮ることに仲田は執着する。スナップ、集合写真、レントゲン写真、遺影。母の写真の存在はときに母そのものでもあるだろう。母がいた痕跡、赤ん坊の自分を抱いていた証。一方で母の「写真」を撮るという行為は、その対象が母そのものではあり得ない、絶対的な距離を伴う。母はかつて写真の中で時間の流れを止められ、しかし同時にそれこそがいつか訪れる最後を小さく予言していた。写真は、時間をとどめ得ないことを逆説的に物語り、生と死とを含みもつ。仲田がその写真にカメラを向けるとき、写真の時空を引き寄せつつ、抗い難い隔たりを共に撮影しているわけで、さらにそこに立ち現われる姿ーーもう一度生き、もう一度死ぬーーそれを見据える強さを思わないわけにはいかない。

そして、仲田は黒いソファに下着姿で座しながらこちらを見据える。その眼差しは母のポートレートに生き写しであり、彼女が意志をもって写真に(像に)なろうとしていることを示している。「美しい速度で」において、仲田は写真そのものと否応なく向き合い、必然的に生や死や時間を混然と抱え込んだ。それは、身のまわりのことを撮影したなかに見え隠れする生死というような位相とは明らかに異なるものだ。

たしか前作には、母が撮った仲田絵美の写真があった。裸身の子ども。それとどこか似たポーズで横たわりながら、いまその眼が見返すものは母ではない。誰でもない、どこでもない、その先にあるものに対峙しようとするこの写真家への信頼は大きい。

 

姫野希美(赤々舎代表取締役・ディレクター)
「1_WALL」グランプリシリーズパンフレットより

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